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第018回 「第七藝術劇場」支配人 松村厚さん
「人情とネオンに囲まれた街」
 大阪市淀川区十三。大阪の玄関、梅田駅からわずか二駅。電車を降り立つと、思わずほっとする気持ちに包まれました。何とも懐かしい商店街の活気が感じられたのです。生活感漂う店の数々。そこには夜の歓楽街も違和感なく共存していました。その間を行き交う普段着姿の人々。地図を片手に目的の映画館を探していたら、パチンコ屋のお兄さんが、親切に道を教えてくれました。劇場は、見事に街の中にとけ込んでおり、その前を通り過ぎてしまったようでした。その映画館は第七藝術劇場。支配人は松村厚さん(45)。

「移動映画と地元の劇場、そしてお茶の間テレビ」
 松村さんの映画初体験、それは小学校の体育館で観た「長靴をはいた猫」(1968年 原画 宮崎駿)。「宮崎監督の原点のような作品でした。特に、ピエールとお姫様が魔王に追いかけられながら逃げるシーンは圧巻でした」。当時は街中の映画館も健在で、そこで観た「東海道四谷怪談」(1954年 中川信夫監督)の恐さは「今でも忘れられない」とのこと。「思わず、同時上映の立体映画用の眼鏡を握りつぶしていたほど」。また、松村さんにとって、お茶の間のテレビも大切な映画体験でした。ほぼ毎日のようにどこかの放送局で映画を放映しており、小学校から中学校にかけて隈無く目を通していたそうです。
「映画の仕事を夢みて」
 大学卒業後、松村さんは東京の堀内カラーに就職。そこは、プロの写真家らを主に顧客とする現像所。「スチール写真など、少しは映画に関われるかな」、その思いで上京したものの「働いてみたら、映画とはほど遠い世界でした」。しかし、この東京でのサラリーマン生活で大きな収穫もありました。時あたかも、東京でミニシアターブームが始まった80年代初頭。「都内のミニシアターや名画座に通い続けました」。約10年間の東京生活で松村さんは、古今東西の映画体験という財産を得ました。
「映画興行、イロハから」
 その後東京生活に終止符を打ち、大阪に戻った松村さん。「これからどうしようかな?」という時に、目にとまったのが映画館宣伝補助募集の広告でした。さっそく受けてみると、見事採用に。96年12月のことでした。その劇場が第七藝術劇場です。当時、劇場を運営していた映画会社が撤退し、映画の分かるスタッフがいなくなったための公募でした。「と言っても、映画好きではあるけれど、興行に関してはまったくの素人で・・・」、いきなり劇場支配人代理になった松村さんの映画興行修業が始まりました。「配給から、“打ち込みは?”と聞かれても、その意味が全く分からなくて・・・(打ち込み=初回の観客動員数)」 そんな松村さんを助けてくれた人もいました。単館系配給会社のWさんと、関西の映画興行界で名の知れた元支配人。「手取り足取り教えてもらって」、今でも二人への感謝の念は消えない、とのことです。
「伝えたい」
 今、大阪のミニシアター業界は激戦区になっているとのこと。単館系作品を上映するシネコンと、大阪中心街にある大手資本のミニシアターの競争。他館とは違って、1スクリーンしかない第七藝術劇場にとっては厳しい現状。「正直、危機感もあります。しかし、それを乗り越えるための工夫を重ねています」。その一つは、入替制上映による複数作品の上映。例えばこの夏、「TOKKO−特攻−」(2007年 監督リサ・モリモト)を上映するにあたって、戦争に関連したドキュメメンタリー映画を入替えで連続上映して、お客様から好評を博したとのこと。また、監督はじめ製作者との関係も密にし、来阪の折りには、一緒に宣伝キャンペーンを行うなどの映画宣伝にも力を入れているそうです。「他の劇場とは違った特化した劇場を目指しています」。
  映画興行界に限らず、あらゆる業界で競争が激しくなっている昨今、十三という街で映画の火を灯し続ける第七藝術劇場の奮闘をこれからも応援していきたい、夕闇の商店街を歩みながら、その思いを強くしました。
(文:木村昌資)
【第七藝術劇場:http://www.nanagei.com/





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