第002回 「新文芸坐(池袋)」館主 永田稔さん |
「映画、初体験は東京・浅草」
昭和16年生まれの永田さんは、疎開世代であった。空襲をさけるために田舎へ疎開していた永田さんが再び東京へ戻ってきたのは小学生の時。幼い頃に疎開していたために、東京には友だちもおらず、寂しい日々を送っていたという。そんな永田さんの遊び場は、映画館であった。当時、銭湯に貼られていた新作映画のポスターの下には、サービスの招待券が数枚ついており、それを真っ先にちぎっては映画館へと走った。その頃見た映画で、一番印象に残っていたのは『二十四の瞳』(昭和29年
木下恵介監督)。映画を観ている大人たちが皆、涙を流していたのが印象的であったそうだ。まだ、終戦から十年も経っていない頃であった。
高校、大学と進学してからも永田さんの映画漬けの日々は続く。時あたかも日本映画の黄金時代であるとともに、学生運動・労働運動が吹き荒れた時代でもあった。 |
「日米安保のデモを抜け出して、映画館へ行っていた」
そう語る永田さん。その時に見た映画は『太陽がいっぱい』(昭和35年 ルネ・クレマン監督)。実際の話、一般の学生、特に首都圏に住む学生は、学生運動を醒めた目で見ていたという。
「法律家になろうと思って、大学に入ったけど、結局、映画ばかり見ていて・・」
そんな永田さんも大学卒業後、鉄道会社に就職すると映画から離れることになる。幹部候補生として採用された永田さんは、仕事に追われ映画を見るどころではなかったのだ。しかし、映画の女神は、永田さんを見放さなかった。結婚式の仲人をしてくれた遠縁の方が当時の文芸坐の社長であり、その方の紹介で文芸坐に中途入社することに。昭和48年のことであった。 |
「やはり好きなことを仕事にしたくて。もっとも前の会社にいたら今頃、子会社の社長ぐらいにはなっていただろうけどね」
時代は、名画座の最盛期であった。特集上映、オールナイト上映会に、映画青年が詰めかけた。
永田さんは、若いスタッフたちと深夜まで企画会議を重ね、ラインナップを練り上げたという。
「お客さんたちも盛り上がってね。映画の主人公と同じ服装をしたりとか。今のコスプレの走りだね。」
それは、永田さん、そして映画青年にとっては至福の時代でもあった。しかし時は流れ、ビデオデッキの普及等により、名画座を維持していくのが難しい時代となってきたのは否定できない。実際、新文芸坐として再スタートする前の一時期、休館していた。
「でも家庭のテレビと、劇場の大スクリーンでは、見るときの感動が違う」
今年で映画興行人生30周年を迎えた永田さん。永遠の映画青年の情熱は、まだまだ熱い。
ところで、取材で訪れた日のこと。入口で出迎えてくれた受付係の中に二人の女子中学生がいた。総合学習の一環としての職場体験だという。この子たちの中から第二の永田さんがうまれるかもしれない。
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(文:フリーライター・木村 昌資 写真:竹下 資子) |
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