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第032回 「日本列島」熊井啓
はじめて映画を観たのは、小学生の時、校庭に白い幕を張って上映された野外映画だ。題名は全く覚えてないが、原爆で焼け爛れた子供たちの場面が随所に白幕に写し出され非常に恐かったことを思い出す。今年になつて山村聡監督の『蟹工船』を観る機会があり、製作した年代が同じであることが解り、調べてみるとそれは近代映画協会第1回作品で新藤兼人監督の『原爆の子』であることが判明した。
 ラジオを聴いて育った子供が、初めて小学校の校庭に白幕を張った野外映画を観てから映画の虜になり、小遣いの殆どをつぎ込んで千葉の田舎町の映画館に通った。時代劇や西部劇、当時の西部劇には立体映画があり、馬に乗ったインデアンがスクリーンから飛び出てくる迫力ある画面を思い出す。
中学、高校時代は日活アクション映画、テレビ映画の西部劇。観る対象がその都度変わっても心の底には『原爆の子』があった。
 やがて日活撮影所に美術助手として入社、そこである映画の製作現場に出会うことになった。青春映画でも、アクション映画でもなく、それは1965年公開の熊井啓監督『日本列島』であった。この映画の美術スタッフではなかったが、台本を読み、美術スタッフの準備の様子や、撮影現場を覗いて皆の熱気と集中力に目を見張った。タイトルバックの新聞紙面の上を蟻が火に炙り出されて逃げ惑うシーンを、何度も何度も監督が納得いく迄全員でくり返す。巨大ゴミ廃棄場で発見される、真実を追う主役記者(宇野重吉)の死体、“一生子供達に真実を教える為に小学校の教師を続ける”決意で歩く芦川いづみの移動撮影のバックには国会議事堂がそびえ続ける…。完成試写会に潜り込んでみた時のあの驚きは忘れられない。映画の持つ力と重みに圧倒された。
 「原爆の子」を観てから13年、映画をつくる側になった私の中で、『日本列島』はまぎれもなくこの1本になったのである。
(日本映画・テレビ美術監督協会理事 林 隆)





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