インターネット エクスプローラーダウンロード
推奨環境:IE5.5以上



 HOME > 思い出の映画この一本 > 連載記事


第025回 「無法松の一生」稲垣浩
 インタビューなどで「あなたの一番感動した映画は?」などと聞かれることがある。そんなとき私は決まって『無法松の一生』と答える。
 この映画が上映されたのは、1943年、太平洋戦争が緊迫した局面を迎えて巷(ちまた)が軍国調一色に塗りつぶされていたときである。
 封切館の「浅草富士館」の前には防火用の火叩きや貯水槽の横に「進め一億火の玉だ!」「欲しがりません勝つまでは!」といった過激なスローガンが書かれた看板が立っていた。
 延々と並んだもんぺや国民服姿の観客の列のなかに、ゲートルを巻いた学生服の私が居た。昭和十八年、学習院高等科一年生の時である。
 戦局は逼迫し、つい一ヶ月前、我々学生の徴兵猶予が取り消され十八才となった私自身も翌年の暮には学徒兵として四国の船舶隊に入隊することになっていたのである。
 ところが、北九州の小倉を舞台に喧嘩っ早い荒くれの人力車夫「富島松五郎」の一生を描いたこの映画は、末期的様相を呈していたそんな時代とは全く別の世界に私を引きずり込んだ。
 なかでも松五郎が陸軍大尉の未亡人(園井恵子)にひそかに思いをよせながら、一人息子の後ろ盾となって、あれこれと世話を焼く件りはそれが初めての現代劇とは思われない阪東妻三郎の名演技と稲垣浩監督の叙情豊な演出が重なって場内は感動の渦に包まれた。
 今でも記憶に鮮やかなシーンがある。
 ひ弱な息子を演じる子役、沢村アキオが縁側で松五郎に甘えてまつわりつく件りだ。
 たヾ、それだけの芝居だが、その後ろの座敷で縫い物をしている未亡人を配したさりげない構図の中で、松五郎の夫人に抱くひそやかな慕情と献身が悲しく伝わってくる名場面であった。
 その名子役が今もなお弟の津川雅彦とともに活躍している大スターの長門裕之。確か「赤シリーズ」の撮影中に「無法松」の話題となった。縁側で、背中にへばり付いた敏雄役のアキオ君が松五郎の鼻や耳をいじくる場面で涙が出たと言ったら、彼もあのシーンが一番好きだと目を輝かせた。監督は何の指示もなく幼いアキオ君に為すがまゝに任せきりだったそうである。
「阪妻さんの背中は大きくてまるでお父さんのようだった」と名優は往時を思い入れた。
 因に彼の父親は『沢村国太郎』。日活時代劇のスターの一人で、阪妻さんと共演した「恋山彦」「鍔鳴浪人」等々、血沸き肉躍る思いをしたものである。
 何れにしても松五郎が未亡人に寄せるひそやかな慕情を、稲垣浩流の叙情あふれる演出で描いたこの作品は、私が生涯忘れられない名編の一つである。(映文振センター顧問)
(映画監督 瀬川昌治)





組織概要   入会案内   個人情報保護指針   よくある質問   お問い合わせ

Copyright (C) 1981 - CurrentYear MCAC All rights reserved.
 
Powered by L-planning