インターネット エクスプローラーダウンロード
推奨環境:IE5.5以上



 HOME > 館主さんを訪ねて > 連載記事


第010回 「吉祥寺プラザ」専務取締役 平野一郎さん
「映画興行一筋半世紀」
 以前、映画興行師という言葉を聞いたことがあります。それは映画業界の最前線で、お客様と直に接する映画館経営のプロ。今回は、その映画興行の道で半世紀以上もの間、活躍されているプロ中のプロ、東興映画株式会社 専務取締役の平野さんにお話をお聞きしました。

最初は千葉の映画館
 平野さんが、初めて劇場支配人になったのは昭和29年のこと。その頃、経営が厳しかった千葉市の新東宝直営館の経営を担うことになったのです。まだ20代の若さでの抜擢。「新作と新版特別上映と銘打って旧作を出してきての二本立て上映をしたり、洋画のナイトショー(今のレイトショー)をはじめたり」など、さまざまなアイディアを活かして映画館経営再建にあたる平野さん。また、支配人自ら営業・宣伝のために町にも出ました。その頃、テレビはまだ普及しておらず、作品の告知は、主にポスター。このポスターを、いかに多く、そして効率的に貼るかが重要なことだった、とのこと。人目につきやすい商店や人家、そして銭湯等々、千葉市内のあらゆるところをまわったそうです。「頑張れば頑張るほど、それが結果としてあらわれる。やりがいがあったね」、時代はわが国の映画興行界が、全盛期を迎えようとしていました。
手作りスクリーンでシネマスコープ上映
 千葉の映画館再建に成功して本社に戻った平野さん。しかし、すぐに今度は神奈川県平塚市の劇場に。ここでも、割引料金の設定や、名画上映など趣向をこらした映画館経営を行います。「地方の劇場は、地元の興行会社が強くて調整が大変だった。力のある人に間に入ってもらったことも」そう語る平野さん。
平塚の劇場を立て直した後、今度は愛知県豊橋市の劇場に赴任。その頃、新東宝のシネマスコープ第1作「明治天皇と日露大戦争」が出来上がりましたが設備がないのでスタンダードで上映するしかありません。しかし平野さんはどうしてもシネマスコープでやりたいとスタッフの前で決意を語ります。それならシネスコスクリーンの寸法通りのものを作ろうと地元のテント屋に白布を注文し、劇場スタッフ総出で一晩で即製のシネマスコープ用スクリーンを完成させ、シネマスコープスクリーンを常設スタンダードスクリーンの前に設置し、レンズは名古屋中部映材から借りて、心配だった音響もうまくいき、上映は大成功でした。「みんな若かったから出来たこと」平野さんは、今も懐かしそうに語ります。
一晩で館名、看板を変える
 昭和40年代、日本映画界は厳しい状況に。大手映画会社の相次ぐ倒産に撮影所の閉鎖。映画館の数も激減します。そのような中、劇場経営の手腕を買われた平野さんは、赴任した各地の劇場再建に力を発揮します。昭和52年、吉祥寺東映と三軒茶屋東映を持つ、現在役員を務めている興行会社に支配人として移ります。その頃ディズニーのアニメが日本で上映されるようになり、これからはアニメの時代だ、と思った平野さんは地の利の悪い吉祥寺の劇場にお客を集めるために、中央線沿線、東は荻窪から西は国分寺あたりまで、幼稚園・保育園や役所・企業の福利厚生担当を周って割引券を配ったそうです。
 ある時銀座で、東宝の昔からの知り合いに出会いお茶を飲んでいると、吉祥寺で「もののけ姫」を四週間以上上映できる所がなくて困っていると言われ、平野さんは前から宮崎アニメを是非上映したいと思っていたのですぐ内諾します。その後は東映を始めあらゆる所に根回し、挨拶をして、平成8年7月12日館名も「吉祥寺プラザ」に変え「もののけ姫」の上映にこぎつけます。ちなみにこの時は前日まで東映の「失楽園」で満員御礼だったため、平野さんの決断は業界を驚かせました。「もののけ姫」は12月12日までの実に21週興行して、1億5000万円の収入をあげました。

 長い映画興行人生で一番大切だと思ったのは人間関係、そして地域のお客様、商店街からの支援も大切、と平野さん。「シネコン全盛期の今、映画興行も変わってきた」、取材の最後に平野さんはそう語りました。しかし、お客様と直に接する映画興行の世界には、変わらない大切なものがあるということを、取材を通して痛感しました。
(文:木村昌資・写真:竹下資子)
【吉祥寺プラザ:0422-22-5336】





組織概要   入会案内   個人情報保護指針   よくある質問   お問い合わせ

Copyright (C) 1981 - CurrentYear MCAC All rights reserved.
 
Powered by L-planning